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2009.10.30
「坂の上の雲」考 その4 〜文学青年と天才軍人・秋山真之〜
今回の人物は、秋山兄弟の弟、秋山真之。彼の経歴を簡単に以下に紹介します。
慶応4年生まれ(秋山家5男)、愛媛県松山市出身。松山の中学時代から正岡子規と親友でした。正岡子規が政治家を志すとして、中学を中退して東京大学予備門に入学したことに刺激を受け、同じく中学を中退し、予備門入学のために上京しました。
大学予備門でも、正岡子規と共に生活し、子規の影響から文学に非常に興味を持つようになったのです。
しかしながら、経済的な理由で真之は予備門を中退し、明治19年に海軍兵学校に入校。4年後には、兵学校を主席で卒業し、軍人としての道を歩み始めます。
明治37年からの日露戦争では、ロシアバルチック艦隊の迎撃作戦(日本海海戦)など、数々の戦略を立案し、日露戦争での日本の勝利に多大なる功績を残しました。
日本海海戦に出撃する時の報告電報『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』という名文は、真之が作成した文章です。
私が「坂の上の雲」を読んで、一番魅力を感じたのが秋山真之でした。そう感じたのは、この小説の中でも、真之が最も中心的な役割をしていたからだと思います。司馬さんは、きっとこの真之を明治に生きた人の代表として、描きたかったのだと思います。
真之の幼少時代は、いわゆるガキ大将でした。ただ頭脳明晰のため、大人も手を焼くいたずらを繰り返すという厄介者でもありました。そういうガキ大将も、中学で勉学に励み、また政治家を志して大学予備門の門を叩きます。予備門では、正岡子規の影響もあり、文学への道も将来の選択肢の一つになりました。自分の将来のために自由に勉学する場所を選択し、また将来の職業も自由に選択できるという、江戸時代では想像すら出来なかった自由の中で、彼らは将来(坂の上の雲)に向かって、走って行きました。
真之は、兄であり軍人である好古の影響、及び経済的な理由で、予備門を中退し、海軍兵学校に入学することになりました。そのとき真之は、子規に一通の置手紙を残して去っていきます。
「予は都合あり、予備門を退学せり。志を変じ、海軍において身を立てんとす。はずらくは兄(子規)との約束を反故にせしことにして、いまより海上へ去る上はふたたび兄と相会うことはなかるべし。自愛を祈る。」
短い文章の中に、親友に対する申し訳なさとともに、しっかりと未来に進む強い意志が記されています。子規も、この手紙を読んでこれまで苦楽を共にした真之との学生生活を思い出し、感傷にふけったのでした。
真之は、明治36年に第一艦隊参謀(第一艦隊司令長官幕僚)に任命され、日露戦争での海戦では、連合艦隊の作戦主任を務めました。その間、旅順に停泊中のロシア太平洋艦隊を旅順口で閉塞する戦略提案、ロシアバルチック艦隊との日本海海戦での作戦提案などを行い、日本を勝利に導く大活躍をしました。
小説では、真之の考える戦略がことごとく的中し、バルチック艦隊を次々に撃退する内容が長く綴られています。真之は、海軍軍人になるために生まれてきたのだと思い込んでしまうほどに。
一方、真之の文学的才能が高いこと、また文学を捨てきれずにいる様な描写も記されています。
上述した、名文『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』が、そのひとつです。
全文は
『敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ』。
これは、連合艦隊がバルチック艦隊との決戦場に向かうにあたり、参謀本部にその決心を述べるための電報でした。ただ、全文を真之が起草したのではなく、飯田少将という人物が前半の『敵艦〜撃滅セントス。』を作成、参謀本部に発信すべく真之の承諾を得るため持参しました。そこで真之は、即座にその文章に続いて『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』を加えたのです。
飯田少将は、晩年この電報を話題にするたびに
「あの一句をはさんだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない。」と語ったそうです。
そして、小説の最後の章「雨の坂」。
日露戦争に勝利し、連合艦隊が横浜港に凱旋した翌々日のこと。真之は、一人で亡き子規の家族が残る根岸(現横浜市)を訪れます。しかし、家の前に長く立ち止まったものの、家族に挨拶もせず、無言のままその場を後にします。その足で、正岡子規が葬られている近くのお寺に姿を現し、子規の墓前で思いにふけりました。雨が降り始め、お墓が濡れ始めます。足早にお寺を去る真之。お寺の前の緑が雨でけむり、ふと、つい先の三笠の艦橋からのぞんだ日本海の海原を思い出しました。
激動の日露戦争が終わり、空虚感に苛まれる真之の心を満たしてくれるのは、文学青年であった正岡子規だったのでしょう。
直前の江戸時代とは大きく異なり、人生の選択が出来るようになった明治時代。その時代に生きた秋山真之は「軍事と文学」という、相反する選択肢に長けていたのです。何れの道に進むのが良かったのか、多才であるがための苦悩を大河ドラマでは、どう描くのか。注目です。
「坂の上の雲」豆情報
日露戦争での連合艦隊の旗艦であった「三笠」が、現在も展示されています。場所は横須賀市の米軍横須賀基地のすぐ横にある三笠公園。戦艦の中は、当時の面影を残しつつ、博物館として貴重な史料の展示がされています。また、甲板から眺める横須賀港の景色は、必見です。
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/index.html
慶応4年生まれ(秋山家5男)、愛媛県松山市出身。松山の中学時代から正岡子規と親友でした。正岡子規が政治家を志すとして、中学を中退して東京大学予備門に入学したことに刺激を受け、同じく中学を中退し、予備門入学のために上京しました。
大学予備門でも、正岡子規と共に生活し、子規の影響から文学に非常に興味を持つようになったのです。
しかしながら、経済的な理由で真之は予備門を中退し、明治19年に海軍兵学校に入校。4年後には、兵学校を主席で卒業し、軍人としての道を歩み始めます。
明治37年からの日露戦争では、ロシアバルチック艦隊の迎撃作戦(日本海海戦)など、数々の戦略を立案し、日露戦争での日本の勝利に多大なる功績を残しました。
日本海海戦に出撃する時の報告電報『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』という名文は、真之が作成した文章です。
私が「坂の上の雲」を読んで、一番魅力を感じたのが秋山真之でした。そう感じたのは、この小説の中でも、真之が最も中心的な役割をしていたからだと思います。司馬さんは、きっとこの真之を明治に生きた人の代表として、描きたかったのだと思います。
真之の幼少時代は、いわゆるガキ大将でした。ただ頭脳明晰のため、大人も手を焼くいたずらを繰り返すという厄介者でもありました。そういうガキ大将も、中学で勉学に励み、また政治家を志して大学予備門の門を叩きます。予備門では、正岡子規の影響もあり、文学への道も将来の選択肢の一つになりました。自分の将来のために自由に勉学する場所を選択し、また将来の職業も自由に選択できるという、江戸時代では想像すら出来なかった自由の中で、彼らは将来(坂の上の雲)に向かって、走って行きました。
真之は、兄であり軍人である好古の影響、及び経済的な理由で、予備門を中退し、海軍兵学校に入学することになりました。そのとき真之は、子規に一通の置手紙を残して去っていきます。
「予は都合あり、予備門を退学せり。志を変じ、海軍において身を立てんとす。はずらくは兄(子規)との約束を反故にせしことにして、いまより海上へ去る上はふたたび兄と相会うことはなかるべし。自愛を祈る。」
短い文章の中に、親友に対する申し訳なさとともに、しっかりと未来に進む強い意志が記されています。子規も、この手紙を読んでこれまで苦楽を共にした真之との学生生活を思い出し、感傷にふけったのでした。
真之は、明治36年に第一艦隊参謀(第一艦隊司令長官幕僚)に任命され、日露戦争での海戦では、連合艦隊の作戦主任を務めました。その間、旅順に停泊中のロシア太平洋艦隊を旅順口で閉塞する戦略提案、ロシアバルチック艦隊との日本海海戦での作戦提案などを行い、日本を勝利に導く大活躍をしました。
小説では、真之の考える戦略がことごとく的中し、バルチック艦隊を次々に撃退する内容が長く綴られています。真之は、海軍軍人になるために生まれてきたのだと思い込んでしまうほどに。
一方、真之の文学的才能が高いこと、また文学を捨てきれずにいる様な描写も記されています。
上述した、名文『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』が、そのひとつです。
全文は
『敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ』。
これは、連合艦隊がバルチック艦隊との決戦場に向かうにあたり、参謀本部にその決心を述べるための電報でした。ただ、全文を真之が起草したのではなく、飯田少将という人物が前半の『敵艦〜撃滅セントス。』を作成、参謀本部に発信すべく真之の承諾を得るため持参しました。そこで真之は、即座にその文章に続いて『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』を加えたのです。
飯田少将は、晩年この電報を話題にするたびに
「あの一句をはさんだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない。」と語ったそうです。
そして、小説の最後の章「雨の坂」。
日露戦争に勝利し、連合艦隊が横浜港に凱旋した翌々日のこと。真之は、一人で亡き子規の家族が残る根岸(現横浜市)を訪れます。しかし、家の前に長く立ち止まったものの、家族に挨拶もせず、無言のままその場を後にします。その足で、正岡子規が葬られている近くのお寺に姿を現し、子規の墓前で思いにふけりました。雨が降り始め、お墓が濡れ始めます。足早にお寺を去る真之。お寺の前の緑が雨でけむり、ふと、つい先の三笠の艦橋からのぞんだ日本海の海原を思い出しました。
激動の日露戦争が終わり、空虚感に苛まれる真之の心を満たしてくれるのは、文学青年であった正岡子規だったのでしょう。
直前の江戸時代とは大きく異なり、人生の選択が出来るようになった明治時代。その時代に生きた秋山真之は「軍事と文学」という、相反する選択肢に長けていたのです。何れの道に進むのが良かったのか、多才であるがための苦悩を大河ドラマでは、どう描くのか。注目です。
「坂の上の雲」豆情報
日露戦争での連合艦隊の旗艦であった「三笠」が、現在も展示されています。場所は横須賀市の米軍横須賀基地のすぐ横にある三笠公園。戦艦の中は、当時の面影を残しつつ、博物館として貴重な史料の展示がされています。また、甲板から眺める横須賀港の景色は、必見です。
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/index.html
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