上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
おわりに

 佐賀の乱を語る際、必ず触れるのが江藤の処刑問題であり、今回は簡易ではあるものの、江藤を審理した裁判を法制史の観点から、一方で最近発表された毛利敏彦氏による「佐賀の乱」新説の検証を同時に行ってみた。私なりの結論は出したつもりだが、まだ満足いく成果を挙げたとは言い難いのが正直な感想である。例えば、大久保利通に与えられた委任状の権限問題について、前例を調査するにあたって、すでに羽賀祥二氏の『明治初期太政官制と「臨機処分」権』という優れた論文が発表されており、当時臨機処分権をめぐって司法省と大蔵省及び正院の間で激しい対立があったことが述べられているが、『司法省日誌』を調査していると臨機処分権の行使に対して批判している司法省自身が特定の官員に対して臨機処分の指令を出している事実が判明し、なぜ司法省が臨機処分権を発動することになったのか、司法省の指令は太政官経由のものなのか、あるいは司法省が単独で指令を与えたものなのか、私の力不足のため、はっきりした結論を出すことが出来なかったので、論文に掲載することは断念せざるを得なかった。この点は今後の課題としていきたい。
 論文「佐賀の乱」執筆にあたって特に留意した点は、人物研究においても同様のことがいえるが、ある人物や事件を歴史全体から切り離し、自分の想像で先にイメージを作っておいて、そのパーソナリティーを自分好みに当てはめる手法は絶対にしてはならないことである。小説ならば許されるが、歴史学の手法ではない。幕末維新の政局は、階級闘争や政策上の対立など主義や思想が複雑に絡み合う。よって近代日本の成立過程を正しく理解するためには、人物や特定の政治史における分析を狭い範囲に限定せず、政治史全体の流れの中で立体的にとらえる研究視覚の確立が必要だと思う。
 「佐賀の乱」後半部分の大まかな事実関係については、坂本慶一『民法編纂と明治維新』から大きな示唆を得た。また、司法職務定制については、最高裁判所事務総局『裁判所百年史』、新律綱領と改定律例については、石井紫郎・水林彪『法と秩序』が大変参考になった。心より感謝する次第である。


(1)『司法沿革誌』には、4月5日「佐賀裁判所ヲ置キ其県内ヲ管ス」とあるが、佐賀裁判所は、いわゆる府県裁判所である。府県裁判所とは、第一審裁判所であり、権限の範囲は「流以下ノ刑ヲ裁断スルコトヲ得ヘシ死罪及疑獄ハ本省ニ伺ヒ出テ其処分ヲ受ク」(司法職務定制第15章府県裁判所章程第58条)となっており、佐賀裁判所では江藤を裁くことができない。
 一方、司法省臨時裁判所とは、「凡ソ国家ノ大事ニ関スル事件及司法裁判所ノ履審、諸裁判官ノ犯罪ヲ審理スル所」(司法職務定制第11章司法省臨時裁判所章程第44条、明治6年12月10日一部改正)ということなので、佐賀の乱という「国家ノ大事ニ関スル事件」の審理を行ったのは臨時裁判所と判断してほぼ間違いないだろう。
 佐賀裁判所設置の理由は、佐賀の乱以後の佐賀県内における治安の回復が主な狙いではないかと思われる。

(2)最高裁判所事務総局『裁判所百年史』(大蔵省印刷局、平成2年)455頁

(3)石井紫郎・水林彪『法と秩序』(岩波書店、平成4年)461~2頁、最高裁判所事務総局『裁判所百年史』(大蔵省印刷局、平成2年)448頁

(4)佐々木克「大久保利通と佐賀の乱」(佐々木克編『明治維新と政治文化』、平成17年)218頁

(5)坂本慶一『民法編纂と明治維新』(悠々社、平成16年)402頁

(6)大島太郎「佐賀の乱」『日本政治裁判史録』明治・前(第一法規、昭和43年)349~50頁

(7)宮内庁『明治天皇紀』第三(吉川弘文館、昭和44年)60頁、指原安三「明治政史」(上)『明治文化全集』第二巻、正史篇(日本評論社、昭和3年)175頁

(8)毛利敏彦『江藤新平』増訂版(中公新書、平成9年)179~80頁

(9)日本史籍協会『百官履歴』一、「江藤新平条」(北泉社、平成9年)90頁

(10)的野半介『江藤南白』下(南白顕彰会、大正3年)575~6頁

(11)石井紫郎・水林彪『法と秩序』(岩波書店、平成4年)339頁

(12)東京大学史料編纂所『明治史要』附表(東京大学出版会、昭和8年)33頁

(13)石井紫郎・水林彪『法と秩序』(岩波書店、平成4年)146頁

(14)石井紫郎・水林彪『法と秩序』(岩波書店、平成4年)143頁

(15)石井良助『明治文化史2法制編』(洋々社、昭和29年)282~3頁、石井紫郎・水林彪『法と秩序』(岩波書店、平成4年)556~7頁

(16)的野半介『江藤南白』下(南白顕彰会、大正3年)606~7頁

(17)司法省編纂『司法沿革誌』(法曹会、昭和14年)47頁

(18)石井良助『明治文化史2法制編』(洋々社、昭和29年)280頁、石井紫郎・水林彪『法と秩序』(岩波書店、平成4年)476頁

スポンサーサイト
 3 梟首刑の適用

 『江藤南白』の著者的野半介は、江藤の処刑に関して、明治6年施行の改定律例をもって廃止された「梟首」を適用したとして厳しく批判している。他の主な江藤伝記を見ると、鈴木鶴子『江藤新平と明治維新』、江藤冬雄『南白江藤新平実伝』が的野の主張をそのまま踏襲している。しかし、これは的野の誤解から生じた誤りである。

 確かに明治3年施行の新律綱領には梟首刑は存在していた。
 新律綱領では、刑罰の種類は5種類あり(笞・杖・徒・流・死)このうち死については「絞」と「斬」の2種類の他に「梟示」があった(12)。梟示の説明は下記の通り(13)。

 新律綱領(名例律1)

 絞・斬二死ノ外、ナホ梟示ナル者アリ。其首ヲ斬リ、刑場ニ梟示シ、看守人ヲ置キ、犯由牌(捨て札)ニ罪状ヲ書シ、其側及ビ各所ニ立テ、三日ヲ経テ除毀ス。兇残ノ甚シキ者ヲ待ツ(扱う)所以ナリ。

一方、改定律例では、刑罰の改正点を以下の通り示している(14)。

 改定律例(名例律・第一条)

 凡笞・杖・徒・流ノ刑名ヲ改メ、一体ニ懲役ニ換ヘ、例ニ照シテ役ニ服ス。

 改定律例では、死以外の4つの刑が懲役刑となった他は記述がない。しかし、これをもって梟示(梟首)が廃止されたと解釈するのは間違いである。元々、改定律例施行をもって新律綱領にとってかわったというものではなく、改定律例とは、新律綱領の定めた原則を修正、または規則を補充したものであり、新律綱領にあって、改定律例にないものは、新律綱領を修正しなかっただけで、改定律例においてそのまま引き継がれていたのである(15)。現に改定律例第7~10条は絞・斬二死の他、梟示(梟首)に関する処置も含んだ条文が定められている。つまり、両者は並行して行われていたといえる。それから、的野は改定律例施行によって梟首の廃止と同時に磔も廃止されたとされているが(16)、磔に関しては後述するが、明治3年の新律綱領においてすでに廃止されているものである。それと、磔は「庶人」階級において適用される刑罰で、江藤ら「武士」(士族)階級に適用されるものではないことも付け加えておきたい。
 杉谷昭『江藤新平』によると、明治7年、梟首に処せられたものは全国で男13名・女2名で、男13名のうち、佐賀の乱関係の2名(江藤・島)が含まれているとのことなので、江藤・島の2名の他に男女合わせて13名が処刑されている。ちなみに梟首刑は、明治12年1月4日に廃止された(17)。

 的野の主張の誤りを訂正した伝記は古いものから、前述の杉谷昭『江藤新平』ついで園田日吉『江藤新平伝』及び『江藤新平と佐賀の乱』がある。的野の誤りを主張した最も古い文献は、筆者の知りうるところ渡邊幾治郎「江藤新平の処刑に就いて」(昭和6年10月、『明治史研究』所収、昭和19年)ではないかと思われる。

4 換刑(閏刑)

 換刑(閏刑)は、華士族の身分的名誉を考慮して設けられた刑罰体系で、その起源は徳川幕府時代の武士身分のための刑罰(18)であったが、新律綱領・改定律例に及ぶ過程で、大きな変化を遂げている。閏刑のうち、死刑に関する変遷を徳川幕府時代から改定律例に絞ってみていくことにしよう。

(1)幕府刑制
 「庶人」⇒磔焚・獄門、死罪
 「武士」⇒切腹(磔焚・獄門に相当)、斬罪(死罪に相当)、敵討(一種の閏刑と目される)

(2)新律綱領・カッコ内は廉恥を欠いた犯罪の場合
 「庶人」⇒死刑
 「士族」⇒自栽(死刑)

(3)改定律例・カッコ内は廉恥を欠いた犯罪の場合
 「平民」⇒死刑
 「士族」⇒通常は消滅、死刑に相当する犯罪は禁錮(死刑)

 ということで、大きな違いは第1に自栽(切腹)が改定律例において消滅したこと、第2に徳川時代では許された敵討が新律綱領では消滅した。また、庶人においては磔などが新律綱領では廃止された。
 ただし、閏刑とは本刑を科すことによって教育する必要のない人々に対して与えられる刑罰であるが、例外としてその犯罪行為が「廉恥ヲ破ルコト甚シキ」場合、華士族の身分を剥奪(除族)され、本刑を科せられることになった(名例律3・閏刑律第13条、閏刑条例第14条)。ちなみに「廉恥ヲ破ルコト甚シキ」犯罪とは、賊盗・賭博・犯姦等(『司法省日誌』)である。

 最後に、臨時裁判所はこの閏刑に基づいて江藤を除族の上、死刑(梟首)に処したのであろうが、「名ヲ征韓ニ託シ、党与ヲ募リ、兵器ヲ集メ、官軍ニ抗敵シ、逆意ヲ逞ウスル」ことが果たして破廉恥な行為なのか、客観的に判断して臨時裁判所の判決にはかなり問題がある。それだけに処刑にあたり、主導的な役割を果たした大久保利通の中に、江藤に対する「私情」があったと言われる所以ではないかと思われる。

2 裁判審理の手続き

 2月15日、佐賀県権令岩村高俊が熊本鎮台兵に護衛されて佐賀城に入城した。翌16日、征韓党・憂国党は、佐賀城攻撃を開始し、佐賀の乱勃発となる。鎮台軍は大敗、征韓・憂国両党が勝利し、18日には江藤と島が佐賀城に入城したが、すぐに政府軍の反撃が始まり連戦連敗を重ねた江藤は、23日に全軍の解散を命じ佐賀を脱出し、鹿児島の西郷隆盛に協力を要請したが交渉は決裂し、さらに高知で林有造や片岡健吉にも面会したが、3月29日、甲ノ浦で捕縛される。
 佐賀に護送された江藤は、臨時裁判所(1)において、4月8日から訊問を受ける。この裁判はきわめて形式的であるものの、一応司法職務定制第93条の断獄順序(2)に則って行われていたことが伺える。断獄順序とは、司法省裁判所を例にとれば、次のごとくである(3)。

1.「初席」
 これは府県裁判所から送致された罪人または逮部が重要罪人として直接に連行した者を検部が「見坐」をして受け取らしめ、「具状調書」は検事を経て断獄課長に「逓付」し、課長が担当の判事・解部を決定して、判事が「罪人」を「一応推問」する手続きである。

2.「未決中」
 「罪人」を監倉あるいは囚獄に留め置き、そこで主として解部が幾度かにわたって「推問」し、その結果を一々判事に「具申」する。

3.「口書読聞セ」
 罪人が罪を認めた時、解部が口書を録し(「口書案」)、その後「口書案」を読み聞かせて相違なきかどうかを確かめ、確認の後に判事と検事が「口書」に連判し、その後もう一度判事・解部が「口書」を罪人に読み聞かせて確認させ、爪印を押させる手続きである。

4.「落着」
 判事が口書により、律文に照らして刑名を擬定する。流以下は専決し、死罪は本省(司法省)を経て天皇に奏上し、裁可を受ける。その後、判事・検事・解部が連判し、判事が罪人に「罰文」を言い渡す。

 裁判所における「断獄」(罪責追求)手続きは、以上の4つから成っている。
 それでは、これから「断獄」(罪責追求)手続きの流れと江藤の裁判審理を大久保利通日記から見ていくこととしたい。

(1)大久保日記、4月8日・9日(「初席」)

 8日、「今日裁判所へ宮へ随従江東の裁判を聴聞す」

 9日、「今日岩村山田等如例出省有之・・・宮に随従裁判所に至り江東其外の詰問を聞江東陳述曖昧実に笑止千万人物推して知られたり只賊中人間らしきものは副島朝倉香月山中のみ・・・」

 8日と9日が、どうやら司法職務定制第93条の断獄順序の第1「初席」である判事が「罪人」を「一応推問」する手続きに相当するといえるだろう。
 それから佐賀の乱に触れる際、大久保が江藤を評する時、必ずと言っていいほど引用される大久保日記中の「江東陳述曖昧実に笑止千万」の解釈について、佐々木克氏によると、幕末維新期の薩摩では「笑止」とは、あざけるのではなく「恥ずかしい」「困った」の意味で使われていて、例えば自分の失敗なんかも「笑止千万」と表現していた。恥を最も嫌う薩摩では、ごく日常的に使われていた言葉だそうである(4)。

(2)大久保日記、4月12日(「口書読聞セ」)

 10日と11日は、裁判審理に関して表立った記録はないが、12日に断獄順序第3の「口書読聞セ」の前半部分に該当する記述があることから、10日と11日に断獄順序第2となる「未決中」の審議が行われたのであろう。前述の通り「未決中」は解部と判事による事務手続きなので、大久保日記には当然記述がない。

 12日、「午後河野大判事岸良大検事江藤一列島一列断刑伺持参故岩村山田武井一同宮へ出頭裁決を乞伺之通相済口書一席にて読上げ終て河野子へ返す」

 この日、「佐賀県出張裁判所調掛」(大検事岸良兼養、権大判事河野敏鎌、大解部山崎萬幹、権大解部増田穂風)は、江藤の「口書」をとった(5)。江藤の口書は、的野半介『江藤南白』にその全文が掲載されているが、3千字にも及ぶ長文である。
 大久保日記にある「口書一席にて読上げ終て河野子へ返す」とは、「口書読聞セ」の前半部分、すなわち罪人が罪を認めた時、解部が口書を録し(「口書案」)、その後「口書案」を読み聞かせて相違なきかどうかを確かめ、確認の後に判事と検事が「口書」に連判、という手続きを行ったのだろう。ただし、「口書読聞セ」は罪人が罪を認めた時、はじめて「口書」をとるのが正規の手順である。本件は罪人(江藤及び幹部ら)が罪を認めておらず、この「口書」は正規の口書ではない。それにも関わらず、断刑伺を携えて宮(征討総督東伏見宮親王)の承認まで得てしまっている。
 この断刑伺も本来は司法職務定制第93条の断獄順序に従えば、最後の「落着」の時点で律文に照らして刑名を擬定しなければならないものである。
ここで、大久保利通の4月8日の日記全文をもう一度見てみよう。

8日、「今日山田少将岩村四等出仕(通俊)出省如例河野大判事より擬律伺有之評決之上宮ヘ相伺御異存無之伺之通りにて相下ヶ候今夕宮(併)東郷高島等入来宮崎県より谷村入来今日裁判所へ宮へ随従江東の裁判を聴聞す」

12日の断刑伺とは、8日の江藤の審理に先立ち、あらかじめ擬律(法の適用と量刑)について大久保に伺いを立て、さらに東伏見宮の了解を得ていたもののことであろう。これを再度持参し、重ねて再度宮の裁決を得たと思われる。そもそもこの擬律は、さらにさかのぼること3月14日に河野権大判事が内務卿大久保利通に提出した「断罪意見書」であったことは疑いがない。この断罪意見書には、「首ハ梟、従ヲ三等ニ分チ、其ノ重キ者ハ斬、其軽キ者ハ懲役終身、尤モ軽キ者懲役十年(6)」とされており、従の者の刑に減刑があった他は、そのまま4月13日の判決において変わることがなかった。これだけでも江藤の裁判がいかに形式的なものであったかが分かる。しかも、この審理において参議兼内務卿の大久保利通が深く介入していることに気付くことと思われるが、これは違法ではない。なぜならば、前年の明治6年5月2日に太政官正院事務章程が潤飾されて「凡ソ裁判上重大ノ訟獄アレハ内閣議官其事ヲ審議シ或ハ臨時裁判所ニ出席シテ之ヲ監視スル事アルヘシ(7)」とされていたのである。太政官制の潤飾は新任参議の江藤が中心となって進められてきた(8)とされているが、江藤が参議に就任した4月19日(9)から5月2日までの半月足らずの日数で果たして太政官の潤飾にどれだけ着手できたのか大いに疑問が残る。もっと以前から大蔵省の問題など太政官制の不備は指摘されていたものであり、筆者はこの太政官制潤飾に関して、江藤が中心となって進められた説についていささか異論があるが、これは他の機会に譲ることとして、内閣議官(参議)が事件を審議し、あるいは臨時裁判所に出席してこれを監視することを容認してしまった以上、太政官正院事務章程は、自ら司法権の独立を放棄してしまったのも同然なのである。つまり、太政官正院事務章程を前提とする限りにおいては、江藤の裁判を司法権独立の理念でこれを非難することはできないのである。

(3)大久保日記、4月13日(「口書読聞セ」及び「落着」)

 13日、「今朝五時出張裁判所へ出席今朝江藤島以下十二人断刑に付罰文申聞かせを聞く・・・」

 大久保日記には「落着」に関する記述がみえるが、「口書読聞セ」後半部分の記述が省略されているので、「口書読聞セ」後半部分の様子を的野半介『江藤南白』から追ってみよう(10)。

 「時に官吏、口供書を携へ来り、一読し終りて、南白等の拇印を要求せり。然るに口供書の朗読低声にして文意を聴取し得ざるもの多く、其聴き得るものは自己の陳述と相違せしかば、山中、中島等は之を詰問し、且拇印するを肯せざりき。判官之を見て大いに怒り、忽ち獄卒に命じ無法にも山中等の手を執りて強て拇印せしめんとせしが、山中等尚之を拒みしかば法廷為に騒然たり。是に於て、南白は山中を顧み謂て曰く『彼等既に我等を除かんと欲す、豈に口書拇印を要せんや。而して今故らに、之を要するもの之を藉りて其非を飾るの具たらしめんとするのみ。然れとも、吾等の事業、天下自ら公論のあるあり、今小吏輩と争ふも、何の益か之あらん』と。是に於て山中等之と争ふの益なきを覚り、始めて拇印したりと云う。」

 江藤はじめ山中ら幹部は一応拇印したものの、「口供書の朗読低声にして文意を聴取し得ざるもの多く、其聴き得るものは自己の陳述と相違」している等、多くの欠陥があったとみるべきである。
 さらに江藤にとって予想外だったのは、拇印の直後に判決が言い渡されたことである。

 司法職務定制を熟知している江藤からすれば、「口書読聞セ」の後、判事が口書により、律文に照らして刑名を擬定する。流以下は専決し、死罪は本省(司法省)を経て天皇に奏上し、裁可を受ける。その後、判事・検事・解部が連判し、判事が罪人に「罰文」を言い渡してはじめて「落着」となるのである。自ら罪を認めていない者の口書によって、直ちに判決が下ることなど通常はありえない。江藤は、これら一連の裁判を正式の裁判でないと認識していたと思われる。正式な裁判でないからこそ、拇印はするものの、江藤は陳述を曖昧にしておくことで、正式な決着は東京の臨時裁判に委ねられることになる。そこで堂々と自己の主張を述べるつもりだったのではないか、拇印を拒んだ山中らを説得したのもこれらの理由からであろう。

 逆に臨時裁判所の河野裁判長にしてみれば、判決日の前日ではあるものの、あらかじめ江藤の口書により律文に照らして刑名を擬定し、死罪については、大久保に代わって全権を委任された東伏見宮親王の決裁を仰いでいるから司法職務定制第93条の断獄順序に則ったものであるとの主張であろう。
 しかし、罪人が罪を認めていないにも関わらず、口書が作成されたものであるので、河野や大久保らの主張は著しく正当性を欠くものといえる。「改定律例」断獄律318条に「凡罪ヲ断ズルハ、口供結案(自白調書)ニ依ル。・・・(11)」とある。すなわち、裁判は罪人の自白を録した供述書によらなければならないのである。
 そういう意味で、佐賀の乱における裁判は、前述の通り「断獄」(罪責追求)手続き上は順番通りに励行しているものの、裁判審理の中身については、きわめて形式的なものであったとの結論に達するのである。
1 戦争の発端

(1)毛利敏彦氏による新説について

 平成17年3月、江藤新平研究の第一人者といえる毛利敏彦氏が『佐賀戦争、百三十年目の真実』(明治維新史研究会)という論文を発表された。論文の中で同氏は戦争が起こった直接の理由、原因について明治7年2月1日に憂国党が小野組を襲撃したものの、官金略奪には失敗したことを挙げ、官金略奪がなかったにも関わらず、政府は軍隊を動員させた点について、正当な根拠を欠いていると結論付けられた。また、最近の新書『幕末維新と佐賀藩』においても基本的には同じ論旨に立った叙述をされている。
 毛利氏の説によると、明治のジャーナリスト仮名垣魯文の『佐賀電信録』にある「小野組為替会社に突入し・・・二十万円を略奪せり(1)」という報道が定説化しているという。しかし、同氏は「公文録」その他の史料から官金略奪の事実はなかったとし、政府による軍隊動員命令は不当な処置であったことを強調している。

 同氏が言うように、確かに佐賀戦争(佐賀の乱)における直接の根拠を突き止めることは非常に重要なことであるので、毛利氏の新説を分析しつつ、小野組襲撃事件について改めてここで取り上げることにしたい。

(2)小野組襲撃事件

 小野組襲撃事件は、現代風で言うならば、佐賀憂国党による強盗未遂事件である。
 明治7年当時の法律は、前年6月13日頒布された改定律例(2)である。強盗未遂については、改定律例の改正強盗律(第127条)(3)に該当するだろう。

改正強盗律(第127条)

 凡強盗、兇器ヲ持セズ、威力ヲ以テ人ヲ劫シ、財ヲ得ザル者ハ、皆懲役二年。財ヲ得ル者ハ、贓ヲ分タズト雖モ、贓ヲ併セ、首従ヲ分タズ罪ヲ科ス。
 
 其兇器ヲ持スル者ハ、財ヲ得ズト雖モ、首ハ絞、従ハ懲役終身。財ヲ得ル者ハ、皆斬。其財ヲ得ズト雖モ、人ヲ殺傷スル者、亦同ジ。

 佐賀では、不平士族が征韓党や憂国党という集団を組織していた。征韓党は名前の如く征韓論を主張する集団で、憂国党は旧幕時代の封建体制復帰を主張する集団の事である。
 憂国党は前述の通り士族集団ということで、当然のことながら刀は所持していたはずである。刀は兇器と見做すと思われるので、「其兇器ヲ持スル者」に該当するだろう。兇器を持って強盗に押し入った場合、例え未遂であっても首(主犯格)は「絞」、従は「懲役終身」、と重罪である。もし、士族が所持する刀に限って兇器に該当しなかったとしても「懲役二年」で、やはり犯罪であることには変わりない。
 さらにこの時期は、右大臣岩倉具視が赤坂喰違見附で、高知県士族で陸軍中佐の武市熊吉ら9名に襲撃されるという事件の直後であり、わずか半月後に憂国党の一部が反乱の口火を切ったという報が届けば(官金略奪の有無に関わらず)、政府においても過敏に反応するのも致し方ないことであろう。治安を担当する内務卿大久保利通にとってはなおさらのことである。
 つまり、小野組襲撃が強盗未遂であっても犯罪には変わりなく、襲撃そのものが反乱の開始と政府が認識し、出兵の命令を出したのであれば、政府に落ち度はなく、従来の通説を覆す新説としては成立し難いものであるといえる。

 ここで、佐賀の乱が起きる前年の佐賀県の情勢について簡単に説明しよう。明治6年の佐賀地方は全国的とはいえ、米の相場が高騰し、6月には旱魃、10月には風水害、さらに加地子問題で地主層は県と政府に対して激しい反感を持つようになった。杉谷昭氏は、このような一連の特殊事情が農民の反政府感情を産み出し、それが憂国党に受け継がれ、やがて征韓党と挙を共にするに到ったとしている(4)。
 明治6年当時の権令は岩村通俊だが、彼は加地子対策のため、大蔵省事務総裁大隈重信の意を受けて就任したが、年末の12月8日、大隈宛てに書簡を送り、加地子問題落着を報告し、その他引き継ぎ等も概ね片付いたので、内約の通り帰京したいと願い出ていた(5)。
 翌7年1月14日、既に帰京していた岩村が大隈に書簡を送り、弟の高俊を権令の後釜に据えるための根回しを依頼している(6)。内務省が誕生する前までは、地方官や政府人事は大蔵卿が握っていた。内務省設立後は徐々に内務卿に権限が移行しつつあったが、当時は未だ過渡期ということもあって、大蔵卿も人事権を持っていた。毛利氏は、岩村高俊の意見書を大久保利通が受け入れ、兄通俊は事実上更迭されたと解釈されているが、大久保が岩村高俊の意見書を受け入れたことは事実かもしれないが、それより以前に、兄通俊が大隈大蔵卿に弟高俊を推薦していた事実は見逃せないであろう。理由は、高俊が佐賀の権令就任に意欲的だったこともあるだろうが、兄通俊が加地子問題を片づけたことで、当初の使命を果たしたと判断し「内約の通り」権令を降りたと見るのが自然な解釈だと思われる。

(3)政府の反応

 毛利論文『佐賀戦争、百三十年目の真実』の中で、2月7日・8日・11日の3通の電信を紹介して「金皆アル」や「安心スベシ」等の文言があることから「ちょっとしたごたごたは起きたが、すぐに治まったということが、この史料から読み取ることができる(7)」とされているが、果たしてそうなのか。
 ここで、大久保利通の動きを見ていこう。まず、2月3日に前述の憂国党による小野組襲撃事件の報告を受け、大久保は翌日、西郷従道と鎮台兵派出について協議し(8)、8日、三条太政大臣に佐賀出張を申し入れ(9)、同日木戸孝允にも書簡を送り、佐賀出張の理解を求めている(10)。極めて迅速な行動であるが、大久保の佐賀出張申請はちょうど上記2月7日・8日の電信が政府に到着した頃のことである。3通の電信のうち、7日と8日の電信には小野組で保管していた「官金を県庁へ返した」という重要な文言がある。毛利氏は「八日時点では小野組にあった官金を全部県に引き渡して、県自身がお金の出し入れの事務をすることにした(11)」と、そのまま言葉通りの解釈をされているが、2月7日・8日時点において佐賀県庁は一体どのような情勢のもとに置かれていたのか、また、政府はどのような認識であったかについての考察を一切試みていない。
 当時の佐賀県政を知る史料の1つとして、2月4日付け佐賀県権少属藤井伝八の「佐賀県征韓派動静報告書(12)」がある。その一部を紹介しよう。

 「佐賀県庁は征韓同論ニ付参事ヲ除ク之外官員も皆会議ニ出席致候由之事」

 藤井の報告によると2月4日現在、佐賀県庁はすでに征韓派の支配下にあることを窺わせる内容である。つまり、藤井の報告を受けた政府は、7日・8日の電信をもって小野組の官金は征韓派の手に落ちたと解釈したであろう。
 政府宛ての電信は、工部卿伊藤博文(電信取扱主務官庁は工部省のため)に届いていたが、伊藤は7日・8日の電信報告を受けて9日に三条太政大臣と大久保に次の書簡を送っている(13)。

 「此電信を以見候へハ小野組金ハ佐賀県にて預候趣ニ相見ヘ申候、左スレハ賊手ニ在ル必然ナリ」

 政府は、小野組で預かっていた官金が征韓派に握られ、政府への挙兵や上京資金に流用される恐れがあると警戒したのではないかと思う。
 大久保の迅速な行動は、これら一連の電信に対して、一刻の猶予も許されない極めて危険な情勢下にあると判断したことが第一に挙げられる。

 以上、2月上旬の佐賀現地の情勢を詳細に検討すると、毛利氏が2月15日の佐賀電信局発の「士族動揺、穏やかの模様・・・」の解釈も「佐賀現地が平穏であった」のではなく「佐賀現地は征韓派の支配下のもと」小康状態にあったと見るべきだろう。実際、この15日の電信以降、音信不通となり、落合弘樹氏は「官吏の逃亡か断線で佐賀電信局は閉鎖されたのではないかと思われる(14)」と分析している。つまり、佐賀士族と鎮台兵は既に衝突寸前の状態であったのだろう。実際、13日には征韓党が政府に対して宣戦布告書ともいえる「決戦之議」が公表されており、戦争はもはや不可避であったといえる。


(1)毛利敏彦『佐賀戦争、百三十年目の真実』(明治維新史研究会、平成17年)10頁

(2)司法省編纂『司法沿革誌』(法曹会、昭和14年)22頁

(3)石井紫郎・水林彪『法と秩序』(岩波書店、平成4年)223~4頁

(4)杉谷昭「佐賀の乱覚書」(吉川弘文館『日本歴史』87号、昭和30年)および「佐賀の乱小論」(上)(吉川弘文館『日本歴史』121号、昭和33年)
佐賀地方の士族層に関する問題は上記杉谷論文の他、堤啓次郎「明治初期における地方支配の形成と士族反乱」、長野暹「佐賀地域における士族層の存在形態と「佐賀の役」」(共に長野暹編『「佐賀の役」と地域社会』九州大学出版会、昭和62年)も詳しい。

(5)杉谷昭「佐賀の乱小論」(上)(吉川弘文館『日本歴史』121号、昭和33年)、54頁

(6)『大隈重信関係文書』ニ、232頁

(7)毛利敏彦『佐賀戦争、百三十年目の真実』(明治維新史研究会、平成17年)17頁

(8)『大久保利通日記』ニ、236頁

(9)『大久保利通文書』第五巻、348~9頁

(10)『大久保利通文書』第五巻、352~4頁、『木戸孝允関係文書』2、201~2頁

(11)毛利敏彦『佐賀戦争、百三十年目の真実』(明治維新史研究会、平成17年)16頁

(12)『大隈文書』第一巻、92~3頁

(13)『大久保利通関係文書』一、113頁

(14)落合弘樹「佐賀の乱と情報」(佐々木克編『明治維新と政治文化』、平成17年)188頁
はじめに
 
 「佐賀の乱」は、明治初年における重要な戦争であり、政治史的にも法制史的にも種々の問題を内蔵していた。また、戊辰戦争で功績のあった肥前(佐賀)の出身で、参議として政権の中枢に立ったことのある人物が、戦争の首魁となった士族反乱の最初でもあり、戊辰戦争と大きく異なる点は、電信や汽船など当時最新の技術をフルに活用した戦争ということである。

 「佐賀の乱」の研究は、佐賀県庁史料(官省進達)、大隈文書、大木喬任文書、公文録等を基礎として、杉谷昭氏(1)、堤啓次郎氏(2)、長野暹氏(3)、最近では、落合弘樹氏(4)や佐々木克氏(5)、さらに江藤新平研究における第一人者といえる毛利敏彦氏も『佐賀戦争、百三十年目の真実』(明治維新史研究会)及び『幕末維新と佐賀藩』(中公新書)の2書において、佐賀戦争の新説を展開している。

 また、戦闘の事実経過については、「佐賀の乱」の首魁者とされる江藤新平の伝記に数多く紹介されているので、ここでも言及しておく必要があるだろう。
 まず、古いものから順に紹介すると以下の伝記がある。(入手困難なものは除く)

1.的野半介『江藤南白』 南白顕彰会(大正3年)
2.杉谷昭『江藤新平』 吉川弘文館(昭和37年)
3.園田日吉『江藤新平伝』 大光社(昭和43年)、『江藤新平と佐賀の乱』 新人物
往来社(昭和49年)
4.毛利敏彦『江藤新平』 中公新書(昭和62年、増訂版平成9年)
5.鈴木鶴子『江藤新平と明治維新』 朝日新聞社(平成元年)
6.江藤冬雄・監修毛利敏彦『南白江藤新平実伝』 佐賀新聞社(平成12年)

などが挙げられる。

 1の的野半介『江藤南白』は、言わずと知れた江藤伝の古典的労作であると共に、これまで江藤新平研究を支えてきた基礎文献である。ただし、顕彰が目的であるため、独善的な解釈が多いなど問題はあるが、100年近く経った現在でもその史料的価値はいささかも失わないものである。

 2の杉谷昭『江藤新平』は、前掲の一連の論文「佐賀の乱」を執筆した著者ということもあり、江藤を主人公とした「佐賀の乱」の章においても比較的中立な立場で、「大隈文書」を中心に依拠されており、非常に内容の濃い作品に仕上がっている。特に前年の佐賀県政から「佐賀の乱」に至る原因を分析されている点が他の江藤伝と大きく異なっている。ただし、吉川弘文館の「人物叢書」というシリーズでの作品のため、紙数的制約の影響もあり、江藤新平の中央政界における事績の章では、やや中身が薄いものになってしまっているのが残念である。

 3の園田日吉氏は、長年にわたって雑誌「佐賀人」、「佐賀史談」の編集・発行を手掛けてきたジャーナリストである。戦前期、肥前史談会が主宰となって「肥前史談」という機関誌を発行していたが、戦後になって園田氏が、肥前史談会の「肥前史談」に代わり、佐賀史談会を立ち上げ、雑誌「佐賀人」、「佐賀史談」を発行し、肥前史談会の意志を引き継いだ人である。
 さて、園田日吉『江藤新平伝』、『江藤新平と佐賀の乱』であるが、どちらも叙述のウエートは「佐賀の乱」に重点を置いている。戦争の経過だけに限れば、『江藤南白』に匹敵するほど詳細なものとなっているが、誤植(特に『江藤新平伝』)が多いのが欠点といえる。

 4の毛利敏彦『江藤新平』は、それまでの江藤伝と違い、叙述の重点を中弁~明治六年政変に置いた点で大きく異なる。ただ、ひたすら江藤の事績を称賛する内容に疑問なしとはしないが、氏の一連の研究がきっかけとなり、研究者以外の一般人にも江藤新平という人物を知らしめた功績は大きいだろう。

 5の鈴木鶴子『江藤新平と明治維新』は、著者は江藤新平の実弟江藤源作の孫にあたる。近親者ならではの逸話などもあり、また非常によく勉強されているという印象が強い。しかし、大久保利通に関するくだりになると、かなり感情的な記述が目立ち、やや冷静さを欠いた内容となっているのが残念である。また、同書は前述の毛利敏彦氏から高い評価を受けているが、これは「明治六年政変」で毛利氏が展開した西郷・江藤非征韓論者説を鈴木氏がそのまま踏襲したことによると推定できる。

 6の江藤冬雄・監修毛利敏彦『南白江藤新平実伝』は、著者は鈴木鶴子氏と同じく江藤新平の近親者である。また、園田日吉氏とも親交があり同氏主宰の「佐賀人」、「佐賀史談」の常連執筆者でもあった。鈴木氏同様、近親者ならではの逸話もあり、本書自体のボリュームも申し分ないものとなっているが、江藤冬雄氏も鈴木氏同様、大久保利通に対するむき出しの敵意の姿勢がかなり目立つ。さらに大半が『江藤南白』に依拠しており、『江藤南白』と読み比べるとやや物足りなさがある。とはいえ、『江藤南白』は漢文調で非常に読みづらく、また高価なため、逆にいえば比較的安価な『南白江藤新平実伝』は『江藤南白』の代替書として最適である。

 本論文では、主に「佐賀の乱」の発端の再検討、江藤捕縛後の梟首刑に関する考察を試みることとする。戦闘の事実経過については、上記の江藤新平関連の伝記に詳しいので省略する。 


(1)杉谷昭「佐賀の乱覚書」(『日本歴史』第87号、昭和30年)、「佐賀の乱以後」(『日本歴史』第96号、昭和31年)、「佐賀の乱小論」(上)(『日本歴史』第121号、昭和33年)、「佐賀の乱小論」(下)(『日本歴史』第122号、昭和33年)、「対外政策と士族反乱」(藤野保編『続佐賀藩の総合研究』、昭和62年)

(2)堤啓次郎「明治初期における地方支配の形成と士族反乱」(長野暹編著『「佐賀の役」と地域社会』、昭和62年)

(3)長野暹「佐賀地方における士族層の存在形態と「佐賀の役」」(長野暹編著『「佐賀の役」と地域社会』、昭和62年)

(4)落合弘樹「佐賀の乱と情報」(佐々木克編『明治維新期の政治文化』、平成17年)

(5)佐々木克「大久保利通と佐賀の乱」(佐々木克編『明治維新期の政治文化』平成17年)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。