2009.10.30
「坂の上の雲」考 その4 〜文学青年と天才軍人・秋山真之〜
今回の人物は、秋山兄弟の次男、秋山真之。彼の経歴を簡単に以下に紹介します。
慶応4年生まれ、愛媛県松山市出身。松山の中学時代から正岡子規と親友でした。正岡子規が政治家を志すとして、中学を中退して東京大学予備門に入学したことに刺激を受け、同じく中学を中退し、予備門入学のために上京しました。
大学予備門でも、正岡子規と共に生活し、子規の影響から文学に非常に興味を持つようになったのです。
しかしながら、経済的な理由で真之は予備門を中退し、明治19年に海軍兵学校に入校。4年後には、兵学校を主席で卒業し、軍人としての道を歩み始めます。
明治37年からの日露戦争では、ロシアバルチック艦隊の迎撃作戦(日本海海戦)など、数々の戦略を立案し、日露戦争での日本の勝利に多大なる功績を残しました。
日本海海戦に出撃する時の報告電報『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』という名文は、真之が作成した文章です。
私が「坂の上の雲」を読んで、一番魅力を感じたのが秋山真之でした。そう感じたのは、この小説の中でも、真之が最も中心的な役割をしていたからだと思います。司馬さんは、きっとこの真之を明治に生きた人の代表として、描きたかったのだと思います。
真之の幼少時代は、いわゆるガキ大将でした。ただ頭脳明晰のため、大人も手を焼くいたずらを繰り返すという厄介者でもありました。そういうガキ大将も、中学で勉学に励み、また政治家を志して大学予備門の門を叩きます。予備門では、正岡子規の影響もあり、文学への道も将来の選択肢の一つになりました。自分の将来のために自由に勉学する場所を選択し、また将来の職業も自由に選択できるという、江戸時代では想像すら出来なかった自由の中で、彼らは将来(坂の上の雲)に向かって、走って行きました。
真之は、兄であり軍人である好古の影響、及び経済的な理由で、予備門を中退し、海軍兵学校に入学することになりました。そのとき真之は、子規に一通の置手紙を残して去っていきます。
「予は都合あり、予備門を退学せり。志を変じ、海軍において身を立てんとす。はずらくは兄(子規)との約束を反故にせしことにして、いまより海上へ去る上はふたたび兄と相会うことはなかるべし。自愛を祈る。」
短い文章の中に、親友に対する申し訳なさとともに、しっかりと未来に進む強い意志が記されています。子規も、この手紙を読んでこれまで苦楽を共にした真之との学生生活を思い出し、感傷にふけったのでした。
真之は、明治36年に第一艦隊参謀(第一艦隊司令長官幕僚)に任命され、日露戦争での海戦では、連合艦隊の作戦主任を務めました。その間、旅順に停泊中のロシア太平洋艦隊を旅順口で閉塞する戦略提案、ロシアバルチック艦隊との日本海海戦での作戦提案などを行い、日本を勝利に導く大活躍をしました。
小説では、真之の考える戦略がことごとく的中し、バルチック艦隊を次々に撃退する内容が長く綴られています。真之は、海軍軍人になるために生まれてきたのだと思い込んでしまうほどに。
一方、真之の文学的才能が高いこと、また文学を捨てきれずにいる様な描写も記されています。
上述した、名文『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』が、そのひとつです。
全文は
『敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ』。
これは、連合艦隊がバルチック艦隊との決戦場に向かうにあたり、参謀本部にその決心を述べるための電報でした。ただ、全文を真之が起草したのではなく、飯田少将という人物が前半の『敵艦〜撃滅セントス。』を作成、参謀本部に発信すべく真之の承諾を得るため持参しました。そこで真之は、即座にその文章に続いて『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』を加えたのです。
飯田少将は、晩年この電報を話題にするたびに
「あの一句をはさんだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない。」と語ったそうです。
そして、小説の最後の章「雨の坂」。
日露戦争に勝利し、連合艦隊が横浜港に凱旋した翌々日のこと。真之は、一人で亡き子規の家族が残る根岸(現横浜市)を訪れます。しかし、家の前に長く立ち止まったものの、家族に挨拶もせず、無言のままその場を後にします。その足で、正岡子規が葬られている近くのお寺に姿を現し、子規の墓前で思いにふけりました。雨が降り始め、お墓が濡れ始めます。足早にお寺を去る真之。お寺の前の緑が雨でけむり、ふと、つい先の三笠の艦橋からのぞんだ日本海の海原を思い出しました。
激動の日露戦争が終わり、空虚感に苛まれる真之の心を満たしてくれるのは、文学青年であった正岡子規だったのでしょう。
直前の江戸時代とは大きく異なり、人生の選択が出来るようになった明治時代。その時代に生きた秋山真之は「軍事と文学」という、相反する選択肢に長けていたのです。何れの道に進むのが良かったのか、多才であるがための苦悩を大河ドラマでは、どう描くのか。注目です。
「坂の上の雲」豆情報
日露戦争での連合艦隊の旗艦であった「三笠」が、現在も展示されています。場所は横須賀市の米軍横須賀基地のすぐ横にある三笠公園。戦艦の中は、当時の面影を残しつつ、博物館として貴重な史料の展示がされています。また、甲板から眺める横須賀港の景色は、必見です。
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/index.html
慶応4年生まれ、愛媛県松山市出身。松山の中学時代から正岡子規と親友でした。正岡子規が政治家を志すとして、中学を中退して東京大学予備門に入学したことに刺激を受け、同じく中学を中退し、予備門入学のために上京しました。
大学予備門でも、正岡子規と共に生活し、子規の影響から文学に非常に興味を持つようになったのです。
しかしながら、経済的な理由で真之は予備門を中退し、明治19年に海軍兵学校に入校。4年後には、兵学校を主席で卒業し、軍人としての道を歩み始めます。
明治37年からの日露戦争では、ロシアバルチック艦隊の迎撃作戦(日本海海戦)など、数々の戦略を立案し、日露戦争での日本の勝利に多大なる功績を残しました。
日本海海戦に出撃する時の報告電報『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』という名文は、真之が作成した文章です。
私が「坂の上の雲」を読んで、一番魅力を感じたのが秋山真之でした。そう感じたのは、この小説の中でも、真之が最も中心的な役割をしていたからだと思います。司馬さんは、きっとこの真之を明治に生きた人の代表として、描きたかったのだと思います。
真之の幼少時代は、いわゆるガキ大将でした。ただ頭脳明晰のため、大人も手を焼くいたずらを繰り返すという厄介者でもありました。そういうガキ大将も、中学で勉学に励み、また政治家を志して大学予備門の門を叩きます。予備門では、正岡子規の影響もあり、文学への道も将来の選択肢の一つになりました。自分の将来のために自由に勉学する場所を選択し、また将来の職業も自由に選択できるという、江戸時代では想像すら出来なかった自由の中で、彼らは将来(坂の上の雲)に向かって、走って行きました。
真之は、兄であり軍人である好古の影響、及び経済的な理由で、予備門を中退し、海軍兵学校に入学することになりました。そのとき真之は、子規に一通の置手紙を残して去っていきます。
「予は都合あり、予備門を退学せり。志を変じ、海軍において身を立てんとす。はずらくは兄(子規)との約束を反故にせしことにして、いまより海上へ去る上はふたたび兄と相会うことはなかるべし。自愛を祈る。」
短い文章の中に、親友に対する申し訳なさとともに、しっかりと未来に進む強い意志が記されています。子規も、この手紙を読んでこれまで苦楽を共にした真之との学生生活を思い出し、感傷にふけったのでした。
真之は、明治36年に第一艦隊参謀(第一艦隊司令長官幕僚)に任命され、日露戦争での海戦では、連合艦隊の作戦主任を務めました。その間、旅順に停泊中のロシア太平洋艦隊を旅順口で閉塞する戦略提案、ロシアバルチック艦隊との日本海海戦での作戦提案などを行い、日本を勝利に導く大活躍をしました。
小説では、真之の考える戦略がことごとく的中し、バルチック艦隊を次々に撃退する内容が長く綴られています。真之は、海軍軍人になるために生まれてきたのだと思い込んでしまうほどに。
一方、真之の文学的才能が高いこと、また文学を捨てきれずにいる様な描写も記されています。
上述した、名文『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』が、そのひとつです。
全文は
『敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ』。
これは、連合艦隊がバルチック艦隊との決戦場に向かうにあたり、参謀本部にその決心を述べるための電報でした。ただ、全文を真之が起草したのではなく、飯田少将という人物が前半の『敵艦〜撃滅セントス。』を作成、参謀本部に発信すべく真之の承諾を得るため持参しました。そこで真之は、即座にその文章に続いて『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』を加えたのです。
飯田少将は、晩年この電報を話題にするたびに
「あの一句をはさんだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない。」と語ったそうです。
そして、小説の最後の章「雨の坂」。
日露戦争に勝利し、連合艦隊が横浜港に凱旋した翌々日のこと。真之は、一人で亡き子規の家族が残る根岸(現横浜市)を訪れます。しかし、家の前に長く立ち止まったものの、家族に挨拶もせず、無言のままその場を後にします。その足で、正岡子規が葬られている近くのお寺に姿を現し、子規の墓前で思いにふけりました。雨が降り始め、お墓が濡れ始めます。足早にお寺を去る真之。お寺の前の緑が雨でけむり、ふと、つい先の三笠の艦橋からのぞんだ日本海の海原を思い出しました。
激動の日露戦争が終わり、空虚感に苛まれる真之の心を満たしてくれるのは、文学青年であった正岡子規だったのでしょう。
直前の江戸時代とは大きく異なり、人生の選択が出来るようになった明治時代。その時代に生きた秋山真之は「軍事と文学」という、相反する選択肢に長けていたのです。何れの道に進むのが良かったのか、多才であるがための苦悩を大河ドラマでは、どう描くのか。注目です。
「坂の上の雲」豆情報
日露戦争での連合艦隊の旗艦であった「三笠」が、現在も展示されています。場所は横須賀市の米軍横須賀基地のすぐ横にある三笠公園。戦艦の中は、当時の面影を残しつつ、博物館として貴重な史料の展示がされています。また、甲板から眺める横須賀港の景色は、必見です。
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/index.html
2009.08.23
「坂の上の雲」考 その3 〜正岡子規のリアリズム〜
秋山兄弟と共に、坂の上の雲の主人公である正岡子規。正岡子規の経歴を簡単に以下に紹介します。
慶応3年生まれの松山市出身。俳句、短歌を創作、研究した文学者であり、27歳の頃に肺結核を発症し、わずか34歳でこの世を去った人物です。
〜 柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺 〜
は、誰もが知る子規の俳句です。
子規の最大の功績は、俳句、短歌を単なる庶民・貴族のことば遊びで留めるのでは無く、過去の歌人・句集・歌集の分析・評価を行い、近代文学としての俳句、短歌のあり方を確立したことでした。
また、子規は、秋山兄弟の弟、真之と幼なじみの間柄で、東京大学予備門の学生時代でも、同じ釜の飯を食べた間柄でもありました。
さて、この文学青年が、日露戦争を中心とした明治時代過渡期のこの物語に、どのように携わっていくのでしょうか。
この小説での子規の役割を簡単に記すとすると、次の2点だと思います。
(1)明治のリアリティ文学者代表
(2)国際舞台での日本の活躍を願う青年代表
(1)「明治におけるリアリティ文学者代表」は、分かり辛い表現になってしまいました。
司馬さんは、日露戦争のころの明治は、リアリズム(現実主義)に基づいて、世の中が欧米に追いつけと一丸となって向かっていった頃であると解釈されているようです。つまり、司馬さんは、欧米に追いつくという目的がはっきりしており、それに向かって、あらゆる技術・知識を集結して、まい進する日本国民の姿に、リアリティを感じ、共感を持たれていました。(逆に言うと、幻想・観念といったような言葉をあまり信用しませんでした。)
秋山兄弟の兄、好古は、「日本騎兵の父」と呼ばれる様に、日本に騎兵の技術を導入した功労者であり、また、弟真之は、バルチック艦隊を日本海海戦で撃破したときの戦略・戦術参謀でした。2人には、幻想とか妄想などという言葉が全く当てはまらない、リアリティを有した人物でした。
では、正岡子規のリアリティとは、どんなものでしょうか。
子規が、日清戦争の従軍記者として中国に赴任したものの、その帰路、肺結核の病状を悪化させて、神戸の須磨の保養院に入院していた頃の物語から抜粋してみます。
〜須磨の灯り〜
須磨保養院にいたころから「源氏」を再び読みはじめていた。須磨のころは場所がら須磨明石の巻きをよみ、ちかごろは別な巻をよんでいる。
「おどろかされるのは、源氏の写生力じゃ。ちかごろ文壇では写実派などととなえだしているが、その写実の上でもいまの小説は源氏にはるかに劣っている。」と子規はくびすじを赤くしながら言いはじめた。
(中略)
読みさして月が出るなり須磨の巻き
という句を漱石にみせた。
(中略)
子規はこのときはさほどの重症とはおもわず、痛みのうすらぐまで須磨で保養し、やがて大阪と奈良にあそんだ。
大和路をあるき、法隆寺まできて茶店に憩うたとき、田園に夕のもやがただよっていかにも寂しげであった。
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
という句は、このとき心にうかぶままを句帳にとどめたものである。
上記に2つの句が記されています。2つの句は、子規が訪れた場所での情景を、そのまま読んだものです。子規は、「写生」、つまり見たもの、聞いたこと、感じたことをそのまま句にすることにこだわりました。「写生」こそ俳句であるとし、理屈が付いたような句は、俳句ではないと位置づけたのです。
また、膨大な数の過去の句や和歌を分析、分類、評価し、近代俳句、和歌の方向性を示しました。その評価の中では、紀貫之などの古今和歌集を「くだらぬ集にあり」と痛烈に批判するなど、過去との決別を明確にしました。
子規の「写生」へのこだわりや、過去の句、歌を評価することによる近代の俳句、和歌の確立は、まさにリアリティを追求するものだったのです。
次は、(2)国際舞台での日本の活躍を願う青年代表・・・です。
本小説では、子規が、海軍で活躍する幼馴染の秋山真之を羨ましく感じている描写が、幾度と無く出てきます。日清戦争で、日本が優勢となり国民が沸き返る中、病をおして従軍記者となって中国に渡りました。とにかく新聞記者として、日本人が国際舞台で活躍している姿を取材したかったのです。また、真之が子規の病状を見舞うたびに、子規は、日清戦争での勝利の理由や、日露戦争を行うか否かなどについて、真之にたずねます。日本の活躍を願い、欧米と対等の立場に立とうと活動する連中を応援する姿は、子規のみならず、他の多くの青年も同じだったと思われます。子規は、そういった明治の過渡期を過ごした多くの青年の代表として、描写されているのだと思います。
以上、「リアリズム」の文学者代表と、日本の活躍を願う一般青年の代表・・・大河ドラマでの子規の行動、言動をこのような観点で観られたら、如何でしょうか。
子規は、この長編小説の前半3分の1位で、この世を去ってしまいます。しかしながら、子規は、司馬さんが最も伝えたかったことを、我々に色濃く伝えてくれているのです。
「坂の上の雲」豆情報
愛媛県松山市に、正岡子規の史料などを分かりやすく展示解説している「子規記念博物館」があります。
道後温泉の目の前です。道後での温泉入浴とセットで訪れてみては如何でしょうか。
(私は2回もセットで訪問してしまいました。)
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/sikihaku/
慶応3年生まれの松山市出身。俳句、短歌を創作、研究した文学者であり、27歳の頃に肺結核を発症し、わずか34歳でこの世を去った人物です。
〜 柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺 〜
は、誰もが知る子規の俳句です。
子規の最大の功績は、俳句、短歌を単なる庶民・貴族のことば遊びで留めるのでは無く、過去の歌人・句集・歌集の分析・評価を行い、近代文学としての俳句、短歌のあり方を確立したことでした。
また、子規は、秋山兄弟の弟、真之と幼なじみの間柄で、東京大学予備門の学生時代でも、同じ釜の飯を食べた間柄でもありました。
さて、この文学青年が、日露戦争を中心とした明治時代過渡期のこの物語に、どのように携わっていくのでしょうか。
この小説での子規の役割を簡単に記すとすると、次の2点だと思います。
(1)明治のリアリティ文学者代表
(2)国際舞台での日本の活躍を願う青年代表
(1)「明治におけるリアリティ文学者代表」は、分かり辛い表現になってしまいました。
司馬さんは、日露戦争のころの明治は、リアリズム(現実主義)に基づいて、世の中が欧米に追いつけと一丸となって向かっていった頃であると解釈されているようです。つまり、司馬さんは、欧米に追いつくという目的がはっきりしており、それに向かって、あらゆる技術・知識を集結して、まい進する日本国民の姿に、リアリティを感じ、共感を持たれていました。(逆に言うと、幻想・観念といったような言葉をあまり信用しませんでした。)
秋山兄弟の兄、好古は、「日本騎兵の父」と呼ばれる様に、日本に騎兵の技術を導入した功労者であり、また、弟真之は、バルチック艦隊を日本海海戦で撃破したときの戦略・戦術参謀でした。2人には、幻想とか妄想などという言葉が全く当てはまらない、リアリティを有した人物でした。
では、正岡子規のリアリティとは、どんなものでしょうか。
子規が、日清戦争の従軍記者として中国に赴任したものの、その帰路、肺結核の病状を悪化させて、神戸の須磨の保養院に入院していた頃の物語から抜粋してみます。
〜須磨の灯り〜
須磨保養院にいたころから「源氏」を再び読みはじめていた。須磨のころは場所がら須磨明石の巻きをよみ、ちかごろは別な巻をよんでいる。
「おどろかされるのは、源氏の写生力じゃ。ちかごろ文壇では写実派などととなえだしているが、その写実の上でもいまの小説は源氏にはるかに劣っている。」と子規はくびすじを赤くしながら言いはじめた。
(中略)
読みさして月が出るなり須磨の巻き
という句を漱石にみせた。
(中略)
子規はこのときはさほどの重症とはおもわず、痛みのうすらぐまで須磨で保養し、やがて大阪と奈良にあそんだ。
大和路をあるき、法隆寺まできて茶店に憩うたとき、田園に夕のもやがただよっていかにも寂しげであった。
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
という句は、このとき心にうかぶままを句帳にとどめたものである。
上記に2つの句が記されています。2つの句は、子規が訪れた場所での情景を、そのまま読んだものです。子規は、「写生」、つまり見たもの、聞いたこと、感じたことをそのまま句にすることにこだわりました。「写生」こそ俳句であるとし、理屈が付いたような句は、俳句ではないと位置づけたのです。
また、膨大な数の過去の句や和歌を分析、分類、評価し、近代俳句、和歌の方向性を示しました。その評価の中では、紀貫之などの古今和歌集を「くだらぬ集にあり」と痛烈に批判するなど、過去との決別を明確にしました。
子規の「写生」へのこだわりや、過去の句、歌を評価することによる近代の俳句、和歌の確立は、まさにリアリティを追求するものだったのです。
次は、(2)国際舞台での日本の活躍を願う青年代表・・・です。
本小説では、子規が、海軍で活躍する幼馴染の秋山真之を羨ましく感じている描写が、幾度と無く出てきます。日清戦争で、日本が優勢となり国民が沸き返る中、病をおして従軍記者となって中国に渡りました。とにかく新聞記者として、日本人が国際舞台で活躍している姿を取材したかったのです。また、真之が子規の病状を見舞うたびに、子規は、日清戦争での勝利の理由や、日露戦争を行うか否かなどについて、真之にたずねます。日本の活躍を願い、欧米と対等の立場に立とうと活動する連中を応援する姿は、子規のみならず、他の多くの青年も同じだったと思われます。子規は、そういった明治の過渡期を過ごした多くの青年の代表として、描写されているのだと思います。
以上、「リアリズム」の文学者代表と、日本の活躍を願う一般青年の代表・・・大河ドラマでの子規の行動、言動をこのような観点で観られたら、如何でしょうか。
子規は、この長編小説の前半3分の1位で、この世を去ってしまいます。しかしながら、子規は、司馬さんが最も伝えたかったことを、我々に色濃く伝えてくれているのです。
「坂の上の雲」豆情報
愛媛県松山市に、正岡子規の史料などを分かりやすく展示解説している「子規記念博物館」があります。
道後温泉の目の前です。道後での温泉入浴とセットで訪れてみては如何でしょうか。
(私は2回もセットで訪問してしまいました。)
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/sikihaku/
2009.08.06
観光丸が神戸へ 「龍馬伝」PRで
神戸海軍操練所での練習船でもあった「観光丸」が、約150年ぶりに神戸にやってきます。
といっても、ハウステンボスで就航している復元船ですが。
来年の大河ドラマ「龍馬伝」のPRです。
関連イベントとして、以下のようなものが催されます。
お盆休みの観光にぜひ!
寄航場所:平成21年8月13日(木):メリケンパーク中突堤(初寄港)
【講座】「旅する長崎学講座」の開講
第1回:11:00〜11:45
第2回:13:30〜14:15
第3回:15:00〜15:45
内容
◇幕末長崎のお話
◇月琴ミニコンサート
【観光丸船内イベント】
・ミニ龍馬館(長崎風頭の龍馬像制作者 山崎和國展、龍馬ブーツの展示など)
・観光丸船内ツアー
【ふ頭イベント】
・長崎県観光・物産PRコーナー
・ご当地共催コーナー
・長崎事始めコーナー(オランダ木靴絵付け体験、パットゴルフチャレンジなど)
・長崎県産品が当たるクイズ大会
詳しくは、以下URLで
http://tabinaga.jp/pdf/daikoukai.pdf
観光丸 豆知識
なぜ、幕末の海軍練習船であるこの船が、「観光丸」と命名されたのでしょう。
中国の言葉で「観国之光」というものがあり、「その国の光輝くものを観る」という意味だそうです。
この言葉を用いて「観光丸」としました。
日本で始めての海軍の練習船を操縦して、海外に行き、外国の優れたものを吸収する。。
まさに、的確なネーミングだったんですね。
といっても、ハウステンボスで就航している復元船ですが。
来年の大河ドラマ「龍馬伝」のPRです。
関連イベントとして、以下のようなものが催されます。
お盆休みの観光にぜひ!
寄航場所:平成21年8月13日(木):メリケンパーク中突堤(初寄港)
【講座】「旅する長崎学講座」の開講
第1回:11:00〜11:45
第2回:13:30〜14:15
第3回:15:00〜15:45
内容
◇幕末長崎のお話
◇月琴ミニコンサート
【観光丸船内イベント】
・ミニ龍馬館(長崎風頭の龍馬像制作者 山崎和國展、龍馬ブーツの展示など)
・観光丸船内ツアー
【ふ頭イベント】
・長崎県観光・物産PRコーナー
・ご当地共催コーナー
・長崎事始めコーナー(オランダ木靴絵付け体験、パットゴルフチャレンジなど)
・長崎県産品が当たるクイズ大会
詳しくは、以下URLで
http://tabinaga.jp/pdf/daikoukai.pdf
観光丸 豆知識
なぜ、幕末の海軍練習船であるこの船が、「観光丸」と命名されたのでしょう。
中国の言葉で「観国之光」というものがあり、「その国の光輝くものを観る」という意味だそうです。
この言葉を用いて「観光丸」としました。
日本で始めての海軍の練習船を操縦して、海外に行き、外国の優れたものを吸収する。。
まさに、的確なネーミングだったんですね。
2009.07.25
「坂の上の雲」考 その2 〜乃木希典は無能か?〜
日露戦争の英雄とされる「乃木希典」。
ご存知の通り、乃木希典は、大日本帝国陸軍大将として、日露戦争での要の戦いであった旅順総攻撃を指揮した人物であり、当然「坂の上の雲」にも登場してきます。
ただ、この小説を読んだ多くの方が、司馬さんの乃木希典に対する描写の極端さに、驚いたのではないでしょうか。とにかく、この小説での乃木希典は、愚将、無能軍人として描写され続けます。「たいして能力も無いのに、長州出身であるということのみが幸いして陸軍大将に抜擢され、重要な戦闘での愚策のために多くの兵士を失った・・・」と、こき下ろしているのです。
2つほど文中の例を挙げてみます。
・・・・・・
「陸の長閥、海の薩閥」という。 (中略)しかし「長の陸軍」のばあいは、そういう新生改革の時期が無く、大御所である山県有朋が、依然として藩閥人事をにぎり、長州出身者でさえあれば無能者でも栄達できるという奇妙な世界であった。
「乃木がよかろう」
と山県がいったのには、そういう事情がある。
・・・・・
それでもなお、日本兵は自分の死が勝利への道につながったものであると信じ、勇敢に前進し、犬のように撃ち殺された。かれら死者たちのせめてもの幸福は、自分たちが生死をあずけている乃木軍司令部が、世界戦史にもまれにみる無能司令部であることを知らなかったことであろう。
・・・・・
乃木希典を無能と称する箇所が、幾度と無く出てきます。
乃木希典は、明治天皇崩御後に自刃してこの世を去りますが、その後、彼の武士道的な精神が認められ、多くの人から賞賛されるようになりました。乃木神社なるものも各地に建設され、大正から昭和初期にかけては、神様として崇拝されるまでになった人物です。
では、なぜ司馬さんは、このような人物をここまでこき下ろしているのでしょうか。その理由を考えてみたいと思います。
(1)日本陸軍への批判
司馬さんは、太平洋戦争時に学徒出陣により徴兵され、陸軍兵を経験しました。この時の体験が元となり、太平洋戦争が行われた昭和初期の時代を否定し続けます。そして、過去の明るかったはずの日本を探し出すことが、歴史作家としての道を歩み始めた理由であったことは、皆さんも周知のことだと思います。
特に司馬さんは、太平洋戦争で歪曲して用いられた「統帥権」を諸悪の根源と位置づけました。この統帥権を明治初期に日本に導入したのが、乃木希典のボスである山県有朋でした。
また、神格化された乃木希典の存在は、昭和の初期において、天皇忠誠の象徴、武士道精神の象徴として、司馬さんが嫌う日本陸軍に、大きな影響を与えました。
このような背景から、司馬さんは、乃木希典を昭和の陸軍の負のイメージに直結する人物として、批判の対象としたのではないでしょうか。
(2)小説としての手法
司馬さんは、同じ日本陸軍の中でも、騎兵の旅団長として活躍した秋山好古に、脚光を浴びせます。英雄として賞賛する秋山好古に対して、無能として批判する乃木希典の構図は、小説を読む人を引き付ける一種の方法なのかもしれません。
もう一つ、対比しているものがあります。陸軍と海軍。上述の様に陸軍は、多くの犠牲者を出したということで、全般的に批判の対象としています。一方、海軍に対しては、明治期に猛スピードで諸外国と対等の力を得た力量、日露戦争での最終戦である日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破した実績などを肯定するような表現で書き綴っています。
これは、日露戦争に限ったものではなく、司馬さんは一般的に、陸軍には批判的で、海軍には肯定的な一面を持っています。司馬さんはよく「陸軍は土着、海軍は文明」と説明します。
つまり「陸軍は、その国、土地に根付いた文化から成り立っており、変化があまりないもの。日本陸軍は、騎兵隊の延長上にある。」と、陸軍の文明を否定しています。これも、ご自身の経験に基づく、若干の偏見があるのかもしれません。
このように「坂の上の雲」では、乃木希典が批判の対象となっていますが、多くの人たちに、武士道の精神的な支えとして崇拝されている人物でもあります。
いずれにしても「坂の上の雲」は、史料ではなく、小説です。司馬さんの経験から来る感情的なもの、小説を面白くするための手法が盛り込まれていることは当然のことです。
では、大河ドラマではどの様に描かれるのでしょう。不特定多数の方が視聴するテレビで、ある意味偏った考えを前面に出すことは困難でしょう。恐らく、大河では、淡々と旅順総攻撃の苦悩を描写するのだと思います。
ドラマを見る私たちが、その苦悩を見てどの様に感じるのか。兵士の多くが犠牲になることを仕方なしと理解するか、やはり乃木希典を問題視するか・・・。
小説での描写を思いながらドラマを見ると、ドラマ製作者が訴えたいことが、透けて見えてくるかもしれません。
司馬さんと同じ考えか、それとも違うものか・・・。
「坂の上の雲」豆情報
今回の話題の人物「乃木希典」。日本各地に乃木希典を祀る「乃木神社」が存在します。東京赤坂の乃木神社は、自刃した邸宅の横に建てられています。殉職の刀など、史料も多く残されています。
乃木神社ホームページ
http://www.nogijinja.or.jp/
ご存知の通り、乃木希典は、大日本帝国陸軍大将として、日露戦争での要の戦いであった旅順総攻撃を指揮した人物であり、当然「坂の上の雲」にも登場してきます。
ただ、この小説を読んだ多くの方が、司馬さんの乃木希典に対する描写の極端さに、驚いたのではないでしょうか。とにかく、この小説での乃木希典は、愚将、無能軍人として描写され続けます。「たいして能力も無いのに、長州出身であるということのみが幸いして陸軍大将に抜擢され、重要な戦闘での愚策のために多くの兵士を失った・・・」と、こき下ろしているのです。
2つほど文中の例を挙げてみます。
・・・・・・
「陸の長閥、海の薩閥」という。 (中略)しかし「長の陸軍」のばあいは、そういう新生改革の時期が無く、大御所である山県有朋が、依然として藩閥人事をにぎり、長州出身者でさえあれば無能者でも栄達できるという奇妙な世界であった。
「乃木がよかろう」
と山県がいったのには、そういう事情がある。
・・・・・
それでもなお、日本兵は自分の死が勝利への道につながったものであると信じ、勇敢に前進し、犬のように撃ち殺された。かれら死者たちのせめてもの幸福は、自分たちが生死をあずけている乃木軍司令部が、世界戦史にもまれにみる無能司令部であることを知らなかったことであろう。
・・・・・
乃木希典を無能と称する箇所が、幾度と無く出てきます。
乃木希典は、明治天皇崩御後に自刃してこの世を去りますが、その後、彼の武士道的な精神が認められ、多くの人から賞賛されるようになりました。乃木神社なるものも各地に建設され、大正から昭和初期にかけては、神様として崇拝されるまでになった人物です。
では、なぜ司馬さんは、このような人物をここまでこき下ろしているのでしょうか。その理由を考えてみたいと思います。
(1)日本陸軍への批判
司馬さんは、太平洋戦争時に学徒出陣により徴兵され、陸軍兵を経験しました。この時の体験が元となり、太平洋戦争が行われた昭和初期の時代を否定し続けます。そして、過去の明るかったはずの日本を探し出すことが、歴史作家としての道を歩み始めた理由であったことは、皆さんも周知のことだと思います。
特に司馬さんは、太平洋戦争で歪曲して用いられた「統帥権」を諸悪の根源と位置づけました。この統帥権を明治初期に日本に導入したのが、乃木希典のボスである山県有朋でした。
また、神格化された乃木希典の存在は、昭和の初期において、天皇忠誠の象徴、武士道精神の象徴として、司馬さんが嫌う日本陸軍に、大きな影響を与えました。
このような背景から、司馬さんは、乃木希典を昭和の陸軍の負のイメージに直結する人物として、批判の対象としたのではないでしょうか。
(2)小説としての手法
司馬さんは、同じ日本陸軍の中でも、騎兵の旅団長として活躍した秋山好古に、脚光を浴びせます。英雄として賞賛する秋山好古に対して、無能として批判する乃木希典の構図は、小説を読む人を引き付ける一種の方法なのかもしれません。
もう一つ、対比しているものがあります。陸軍と海軍。上述の様に陸軍は、多くの犠牲者を出したということで、全般的に批判の対象としています。一方、海軍に対しては、明治期に猛スピードで諸外国と対等の力を得た力量、日露戦争での最終戦である日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破した実績などを肯定するような表現で書き綴っています。
これは、日露戦争に限ったものではなく、司馬さんは一般的に、陸軍には批判的で、海軍には肯定的な一面を持っています。司馬さんはよく「陸軍は土着、海軍は文明」と説明します。
つまり「陸軍は、その国、土地に根付いた文化から成り立っており、変化があまりないもの。日本陸軍は、騎兵隊の延長上にある。」と、陸軍の文明を否定しています。これも、ご自身の経験に基づく、若干の偏見があるのかもしれません。
このように「坂の上の雲」では、乃木希典が批判の対象となっていますが、多くの人たちに、武士道の精神的な支えとして崇拝されている人物でもあります。
いずれにしても「坂の上の雲」は、史料ではなく、小説です。司馬さんの経験から来る感情的なもの、小説を面白くするための手法が盛り込まれていることは当然のことです。
では、大河ドラマではどの様に描かれるのでしょう。不特定多数の方が視聴するテレビで、ある意味偏った考えを前面に出すことは困難でしょう。恐らく、大河では、淡々と旅順総攻撃の苦悩を描写するのだと思います。
ドラマを見る私たちが、その苦悩を見てどの様に感じるのか。兵士の多くが犠牲になることを仕方なしと理解するか、やはり乃木希典を問題視するか・・・。
小説での描写を思いながらドラマを見ると、ドラマ製作者が訴えたいことが、透けて見えてくるかもしれません。
司馬さんと同じ考えか、それとも違うものか・・・。
「坂の上の雲」豆情報
今回の話題の人物「乃木希典」。日本各地に乃木希典を祀る「乃木神社」が存在します。東京赤坂の乃木神社は、自刃した邸宅の横に建てられています。殉職の刀など、史料も多く残されています。
乃木神社ホームページ
http://www.nogijinja.or.jp/
2009.06.21
「坂の上の雲」考 その1
今年の秋から、いよいよNHKスペシャル大河ドラマ司馬遼太郎原作の『坂の上の雲』が始まります。
NHKが、威信を掛けて、3年がかりで製作し、さらに3年掛けて放映するという、かつて無かった規模のドラマになるそうです。
なぜ、ここまでして、この小説がドラマ化されるのか、今の我々にとって、この小説からどんなことが得られるのか、これから少しずつではありますが、考えてみたいと思っています。
「坂の上の雲」は、伊予松山出身の秋山好古・秋山真之兄弟、正岡子規の3人を主人公とし、明治期の後半に勃発した、日露戦争を主な舞台とした小説です。
主人公の秋山好古・秋山真之兄弟は、日露戦争で名を残した名軍人ではありますが、それほど多くの人に知られた人物ではありません。正岡子規も、俳句界では非常に有名な人物ですが、日本の歴史を変えた人物か?と問われると、そこまでの人物では無いかもしれません。
歴史上の有名な人物を中心とした大河ドラマがほとんどの中、なぜそれほど名が通っている訳でもない人物が主人公の大河ドラマが作られるのでしょうか?
これは、この小説の題名「坂の上の雲」に集約されているのではないかと思っています。
江戸時代という、世界から閉ざされた世の中から一変、維新を介して新しい時に突入した明治時代。
とにかく、欧米に追いつこうと。追いつけば新たな未来がやってくると信じて、必死に突っ走った時代でした。
明治という時代の地から見上げた空には、欧米という 「雲」 がたなびいています。
その雲に向かって 「坂」 が、伸びている。
この「坂」の先にある「雲」に向かって、必死に駆け上がる若者の姿を描いた物語が、「坂の上の雲」だと感じています。
秋山兄弟、正岡子規には、失礼ではありますが、この小説には、主人公の功績は、それほど関係ないのかもしれません。それより、簡単に書くと「明治という、混迷の時代を生きた、普通の人たちの思い。」が、「坂の上の雲」に刻み込まれているのだと思います。
「戦争」を題材にした非常に際どい物語ではありますが、大河ドラマは、きっと明治の人々のモチベーションの高さを伝え、今を生きる我々に参考になるメッセージを、与えてくれるのではないかと思っています。
「坂の上の雲」豆情報
愛媛県松山市では、色々な「坂の上の雲」の関連施設、イベントなどがあります。
その1例ですが、なんと松山では、「雲」の形をしているオートバイのナンバープレートを選べるそうです。
街で見かけたときは、得をした気分になります。
↓こんな、ナンバープレート
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/shminzei/1180925_904.html
NHKが、威信を掛けて、3年がかりで製作し、さらに3年掛けて放映するという、かつて無かった規模のドラマになるそうです。
なぜ、ここまでして、この小説がドラマ化されるのか、今の我々にとって、この小説からどんなことが得られるのか、これから少しずつではありますが、考えてみたいと思っています。
「坂の上の雲」は、伊予松山出身の秋山好古・秋山真之兄弟、正岡子規の3人を主人公とし、明治期の後半に勃発した、日露戦争を主な舞台とした小説です。
主人公の秋山好古・秋山真之兄弟は、日露戦争で名を残した名軍人ではありますが、それほど多くの人に知られた人物ではありません。正岡子規も、俳句界では非常に有名な人物ですが、日本の歴史を変えた人物か?と問われると、そこまでの人物では無いかもしれません。
歴史上の有名な人物を中心とした大河ドラマがほとんどの中、なぜそれほど名が通っている訳でもない人物が主人公の大河ドラマが作られるのでしょうか?
これは、この小説の題名「坂の上の雲」に集約されているのではないかと思っています。
江戸時代という、世界から閉ざされた世の中から一変、維新を介して新しい時に突入した明治時代。
とにかく、欧米に追いつこうと。追いつけば新たな未来がやってくると信じて、必死に突っ走った時代でした。
明治という時代の地から見上げた空には、欧米という 「雲」 がたなびいています。
その雲に向かって 「坂」 が、伸びている。
この「坂」の先にある「雲」に向かって、必死に駆け上がる若者の姿を描いた物語が、「坂の上の雲」だと感じています。
秋山兄弟、正岡子規には、失礼ではありますが、この小説には、主人公の功績は、それほど関係ないのかもしれません。それより、簡単に書くと「明治という、混迷の時代を生きた、普通の人たちの思い。」が、「坂の上の雲」に刻み込まれているのだと思います。
「戦争」を題材にした非常に際どい物語ではありますが、大河ドラマは、きっと明治の人々のモチベーションの高さを伝え、今を生きる我々に参考になるメッセージを、与えてくれるのではないかと思っています。
「坂の上の雲」豆情報
愛媛県松山市では、色々な「坂の上の雲」の関連施設、イベントなどがあります。
その1例ですが、なんと松山では、「雲」の形をしているオートバイのナンバープレートを選べるそうです。
街で見かけたときは、得をした気分になります。
↓こんな、ナンバープレート
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/shminzei/1180925_904.html



